とかち田園空間博物館とは?

帯広、芽室、中札内の
屋根のない博物館に広がる美しい風景

屋根のない博物館に広がる美しい風景

北海道十勝には、美しい景観や豊かな自然のほか、人々の営みによって長い間に培われてきた伝統や文化など、様々な魅力が存在しています。
これらの様々な魅力を博物館の展示物と見立て、農村地域を一つの「屋根のない博物館」として保全・活用しようという取組が「とかち田園空間博物館」です。

とかち田園空間博物館がご紹介する「とかち大平原地区」は、帯広市、芽室町、中札内村の3市町村によって構成されており、総面積は約1,400k㎡、農家人口は約6,200人の畑作、畜産を基幹産業としています。本地区には、その発展の歴史を刻む防風林で区切られた特有の農村景観、開拓の歴史を物語る建築物、貴重な植物群など数多く存在しており、地域住民の活動も活発に行われています。これらを農村の地域資源「サテライト」として保全整備し、魅力ある田園空間づくりによる都市との交流を活発化していくことを基本方針にしています。

「とかち大平原地区」は、東京23区(530k㎡)の約3倍に相当する広大なエリアで、地区の西側約400k㎡は北海道の背骨日高山脈に連なる山岳丘陵地帯、残り約1,000k㎡に広がる大平原は、わずか100年の間に大規模な畑作・酪農を中心とする農業地帯として開拓されました。

「とかち大平原地区」には、北海道人口の3.3%を占める184,511人(平成22年)の人々が住んでいます。

とかち田園空間博物館の特徴

開拓時代から残る風景や建築物など、
地域資源として選定した60ヶ所以上のサテライト

開拓時代から残る風景や建築物

とかち大平原地区には、青い山並みを背景に、畑作物の色彩と防風林がかもし出す見渡す限りのパッチワークの世界が広がり、日本の中では他に類を見ない独特の雄大さと、美しい農村景観を有しています。雄大な農村景観の中にはサイロなどの歴史的建造物が数多く残り、開拓の歴史を今に伝えています。

この開拓の歴史を持つ防風林やサイロに加えて、とかち田園空間博物館では、そこで展示する「地域資源」として、八千代育成牧場、芽室公園のカシワ、ピョウタンの滝、など約60ヶ所を選定し、それらを「サテライト」と呼んでいます。博物館活動の展開としてこれからも新たなサテライトを発掘(収集)していきます。

とかち田園空間博物館の特徴

十勝の歴史を切り拓いた、とかち大平原地区

開拓時代から残る風景や建築物

十勝は、明治16(1883)年、依田勉三を中心とする晩成社の入植によって本格的な開拓が始まりました。

明治28(1895)年には、十勝農事試作場の(帯広村)仮事務所を晩成社宅に開設し、農業移民を受け入れるために、この地域に適した作物の選定が始まり、翌年、植民地区画の払い下げが始まると、北海道の農場主を夢見る多くの移民が土壌条件のよい十勝川のほとりから入植していきました。試作が進む中、十勝の気候・風土に適した作物として、豆類の優位性が認められ、作付面積が増加していきました。

明治40(1907)年、俗に「金肥」とよばれた過燐酸石灰が導入されると、耕作地は川べりから高台へと拡大していきました。

大正3(1914)年、第1次世界大戦の勃発により豆類の価格は高騰し、豆成金が続出しましたが、大正7(1918)年、戦争が終結すると農産物価格は下落しました。その後、豆作熱はしばらく続きましたが、単作による略奪農法は地沃を奪い、また蝗(いなご)の大発生、冷害などの自然条件が追い討ちをかけ、十勝農業は甚大な被害を受けました。

そこで、安定的な農業経営を目指し、冷害に強い馬鈴薯・甜菜などの根菜類と小麦を取り入れた「輪作農業」が始められ、機械化・栽培技術の進歩・品種改良の後押しもあり、また、先進的な経営感覚にも秀でていたことから、国の諸施策を積極的に取り入れることで、現在の農業王国十勝が築かれました。

十勝では恵まれた土地資源を活かし、大規模で機械化された生産性の高い農業が展開されており、農家1戸当たりの平均耕地面積は38haと全国平均の約20倍以上の規模になっています。乳牛飼育農家1戸当たりの乳用牛頭数は約120頭で、EU諸国の水準に匹敵する規模です。また、農家戸数に占める主業農家の割合が高く、全体の約90%に達しています。

十勝管内の農畜産物に係る農協取扱高は、2,380億円(平成22年)となっており、取扱高に占める耕種部門は56%、畜産部門44%となっています。

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